【近代仙人図鑑】vol.1 "ナナオ サカキ"

 ナナオ サカキは日本を代表するヒッピーであり、偉大な詩人であった。その生涯はまさしくカウンターカルチャーの姿勢を貫いていたものであった。一切を持たず国内外の各地を放浪し、その研ぎ澄まされた感性と幅広い知識で世界全体、いや宇宙全体を詩によって描写してみせた。晩年は長野の山奥に一人住み、精力的に創作活動を続けるともに、その質素清貧な生活を実践することで多くの人々を魅了した。 


 ナナオサカキは、1923年の鹿児島にその生を受けた。彼が9歳のとき、父が営む染物の家業が傾き、ナナオはその日から生きるための金を稼がなければならなくなった。その日暮らしの空腹に悶えた幼少期の日々。あまりのひもじさに盗みを働いたりもしたという。後の彼の金銭に対する独特な感情はこの幼少期の経験に起因していると思われる。



ところが、逆に、その物のない世界、金に恵まれない世界にいたってことが、今非常に力だと僕は思ってる。いつでもそういう生活に入れる。僕は、どこにだって住めるし、手があり足があって何かできるし、お金や物に対する依存をずーっと減らしていける。(80年代 No.31(1985.7/8月号))

 


 ナナオはそのような幼少期を過ごしたのち、18歳で海軍に召集され出水の海軍基地に配属された。この頃には既にナナオのカウンターカルチャー的姿勢を示す一つのエピソードがある。彼は規律を重んじられた旧海軍の中で当時一般的な髪型であった坊主ではなくロングヘアーを貫いたというのだ。彼はいう、「あれは自己主張だった」と。通常であれば、旧海軍においてただの一兵卒がそのような個性を出すということは許されないであろうし、上官もそれを見過ごさないはずである。なぜならそれは秩序立った指揮系統に現れた欠陥と見なされるからである。あくまで兵は兵であり、駒でなければならない。しかし問題はなかった。周りがそれを黙認していたようである。おそるべしである。彼は大日本帝国時代の厳格な管理体制を彼自身の個性によって超越してしまっていた。

 

 


 その後、日本は終戦を迎えナナオは再び日本社会へと放り出された。しばらく様々な職を転々としたのち、東京・新宿付近の貧民街へと居を移し、そこでダンサー、画家、ミュージシャン、詩人などと交流を重ねた。学歴はなかったが、英語やフランス語を独学で習得した。その後、一連の活動の中で山尾三省などの後の日本を代表するヒッピー達と出会い、伝説的コミューン「部族」を形成していく。彼らは高度経済成長の日本の中で、さらなる豊かさを渇望する多くの国民と相容れず、あくまで自然との共生、相互協力による自給自足の生活を求めた。自らを第四世界の人間と呼び、第一世界(資本主義)にも第二世界(共産主義)にも第三世界(第一、第二を目標とする世界)とも異なる、換言すればそれらに全くの無関心を示す世界の人間だとした。それはまさしく原始的な「部族」であり、それらの再興を日本の地において目指したのであろう。


 

 ナナオは「部族」での活動を通して、Gary SnyderやAllen Ginsbergなどのビート文学の巨匠らとも深い交友関係を結び、「部族」の消滅後も、晩年に至るまでこれといった定住地を持たず、ひとり精力的に世界各地を歩き回った。

 

 彼は潔いほど本物の流浪人であったのだ。彼の生き方は形容するにし難い、まさにナナオサカキ的生き方であった。



現在、Youtubeにて晩年のナナオの過ごした質素な日々の様子を覗き見ることができる。






【参考・引用】

ナナオサカキという人物については以下の資料がより詳しい。本記事においても、参考にさせて頂いた。

この麦を見よ!